最愛の人は消えたわけじゃない。
先日、身内に不幸があった。
私はこの「身内の不幸」という表現が好きではない。
この言葉には「死は不幸である」という前提がある。
それが気に入らないのだ。
親しい人を失うことは悲しいかもしれない。
しかし悲しむことと不幸であることはイコールではない。
同様に、死ぬことも不幸だとは私は思っていないのだ。
生まれることも死ぬことも、あらゆる動植物にみられるものだ。
人は死を特別視したがるけれど、実際にはすべての人がいつかは死ぬ。
ぜんぜん特別なことではなく、どこにでも転がっている話だ。
それは自然のサイクルのひとつなのではないだろうか。
突然の事故死などではない限り、人は様々な病に侵されて徐々に弱り、死に至る。
私の身内も例にもれず、長い癌との闘病の果て、この世に別れを告げた。
その苦痛は私には想像のできないものだったはずだ。
家族を残して去ることの悲しみ、やりたいことができなかった無念。
心中も察するに余りある。
しかしそれは本当に不幸なだけのことだろうか。
幸いかどうかは、当人のみが決められることだ。
身内の不幸という言い回しは、幸せのあり方を押し付けているようで好きになれない。
亡くなった人も残された人も、なぜ不幸と決め付けられねばならないのか。
人の死は悲しむべきものではない。
そういうと「心がない」「人間の感情がないのか」という声が聞こえてきそうだ。
悲しむのは自由だし、それを否定することもしない。
ただ自分は、それよりも当人の苦痛の日々に思いを馳せてしまう。
そしてこう思うのだ。
「お疲れ様、ゆっくりおやすみ」と。
ようやく苦痛から解放されたであろう、その魂をねぎらいたくなる。
魂があるのかどうかはわからない。
輪廻があるかどうかも定かではない。
それでも、火葬された肉体は煙となり天に昇り、遺灰はいつか風化する。
天に昇った煙は、やがて雨とともに大地に降り注ぎ、また新たな命を育む。
私は、決して命は失われていないと思うのだ。
形は変わっても肉体を構成していた物質は残る。
それはもう自分の知るその人ではないけれど、その人の一部だったことに違いはない。
自然に溶け込み、また世界をめぐり、新たな命の土壌となる。
なら命が失われたわけではなく、受け継がれていることにならないだろうか。
もしそうなら、いつも通る道に生えている雑草や、踏みしめている土。
突然降りだした雨や、湿った空気の泥臭い匂い。
それらすべてに、きっと最愛の人は溶け込んでいる。
そして世界中をめぐり、まただれかの命になる。
それは本当に不幸なことだろうか。
死は悲しむべき事なのだろうか。
だから悲しむなと言いたいわけじゃない。
悲しいときは泣いたっていい。
ただ生きている人も亡くなった人も、不幸であるよりは幸福であってほしいのだ。
いつか自分が死んだら、遺灰はそのへんの海にでも蒔いてほしいなと思う。