有意義な無駄話
おひさしぶりです。
少し長めの間隔をあけてブログを書こうとするとき、更新されてるお気に入りのブログがたまってて、それを読むために数日かかっちゃう。
読み終わったらまた更新されてるからまた読む。
そういうループにはまってブログがなかなか書けないことってない?
自分だけですか、はい。
…個人的にはこういう「読んでる人の時間を奪う無駄話」が苦手だ。
いや、ほかの人のブログを読む分にはぜんぜん気にならないし、むしろ気の利いたユーモアを言える人は素敵だと思うのだけど。
私は師と仰ぐ人から、ライターとしての哲学を受け継いだ。
長い記事はだれでも書けるが、本物は無駄がそぎ落とされているものだと教わった。
必要な情報を伝えつつ、冗長にならないように無駄をそぎ落としていく。
脈打つ魂を突き刺し、血飛沫が迸るような、力強い言葉で現実を切り取る。
そこに美しさが立ち現れてくるものだと学んできた。
いかに短く、それでいて本質を抉るか。
そういうスタイルを学び続けてきたから無駄話がしづらいのかもしれない。
(長い記事が悪いという意味ではない。不必要に長い記事を書くなという戒めだ。)
おそらく、ブログというメディアのせいもあるのだろう。
こんな自分でもふつうに雑談はするし、チャットやツイッターでは冗談を飛ばしあったりすることもできる。
ただ、ブログとなるとほぼ独り言のようなものになってしまう。
コメントなどがない限り、基本的には一方通行なメディアだ。
これを読んでいる人は勉強熱心なのだろうぐらいには想像できても、それ以上のことはわからない。
だから、ブログを読む人の時間を無駄に奪ってしまわないように、できるだけ役に立つ、それでいて短く、あっさり読めるようにしたい。
特定の人との会話ではないために、そういう「欲」が自分に働いてしまうのだろう。
これは完全なるエゴだ。
読んでる人がいることを想定したうえでの、自己都合的発想だ。
これはブログをどう定義するか、どういう存在として位置づけるかにもよる。
だから正解というものはないし、人の数だけ解釈があっていい。
ただ、自分の中でブロックというか思い込みというか、そういしなければいけないんじゃあないかという根拠の薄い偏見があったように思う。
ブログはもっと自由に活用されていいんじゃないか。
今回の考察を通して、あらためてブログというものを認識しなおした。
なので、これからはもう少しゆるめに運用していきたいと思う。
と、言いつつ今回の記事も結論へ至るための無駄のない構成にしているあたり、根深い問題なのかもしれないね(笑)
PS.
という無駄話でした。